<2012年8月15日の薄磯海岸>
あまり多くのことを語らなくても、ここがどういう場所なのか分かっている人は分かっている。 震災前はこの時期、多くの海水浴客で賑わっていたこの海岸も、この日はとても静かで、ただひたすらに空と海の青が綺麗だった。 お盆休みの最終日、実家から永崎海岸、中之作港、江名港、二見ケ浦、合磯海岸、豊間海岸を抜けて、薄磯海岸まで来てみた。どの地区も津波による被害が甚大だった場所。 実は震災から5か月後の去年の夏、ここを訪れようかと思ったことがあった。 まだ瓦礫処理のトラックが頻繁に行き来していて、通行止めの箇所も多かった時期。 ただ、自分はいわき市出身でも実家に被害があった訳でもなく、身内に犠牲者もいなかった。 しかも震災当時自分は地元にいた訳でもなく、ボランティア活動に来た訳でもない。 薄磯・豊間地区に身内や知り合いが住んでいた訳でもない。じゃあ、何をしに行く?ただの野次馬? そう思うと、とてもここに来るなんてことは出来なかった。 震災から数か月後、仙台に出張に行った人が宮城の津波被害の大きかった地区に入り込み写メを撮り、 「凄いよ、一面何も無いの。何か人生観変わるね。一度行ってみたら?」と、自慢げにそれを私に見せた。 人生観?部外者がずかずかと被災地に入り込んで見物して騒いで何言ってんの?という彼らに対する違和感や嫌悪感から、私も彼らのようにはなりたくないという気持ちが強くなった。 でも、もし私も今その地へ行ったら地元の人たちに同じことを思われるのではないのか。 そう思うと、ずっと薄磯・豊間地区に来ることは出来なかった。 そう思い悩んだあの日から一年、この日の薄磯の町は、崩れた家の後片付けも済み、白い土台だけが残り、そこに雑草が生え一面緑の広大な敷地が広がるばかり。その奥に岬の上の塩屋埼灯台が見える。 かつてここには沢山の家々が並び、それぞれの暮らしがあった場所。 それを津波により一瞬で大切な家族や日常を奪われてしまった場所。 今もずっと悲しみを抱えて暮らす人がいる場所。 車を降りて、手を合わせる。 変わり果ててもなお、さまざまな想いが今も募るこの町の姿にカメラを向けてシャッターを切ることなんて出来なかった。 お盆休みということもあって、塩屋埼灯台には県外ナンバーの観光客も多かった。 この地に縁がある人達かもしれない、知り合いがいた人達なのかもしれない。 しかし、その足で薄磯地区に入り込み、車を降りてすぐさまカメラを取り出し、町の跡に向けて無神経にシャッターを切り出す。 ずかずかと土台だけになってしまった家に入り込み、ポーズをとって写真を撮る若い人たち。 一体何の記念なんだろう。 被災地を一目見ておこうというのは、あの震災を忘れない、風化させないためには良いことなのかもしれない。 でもその地は、かつてそこで生きて来た人たち、そして生きて行く人たちにとってどんな場所なのか、きちんと考えて行動するべきなのではないかと思う。 ただ、姿を変えてしまっても、薄磯の海と空の澄んだ青は、昔も今も変りなく。 薄磯海岸はそういうところだ。
by hiro--27
| 2012-08-21 15:46
| うちの田舎
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